東日本大震災から10年 被災地の「これまで」「今」「未来」
2011年3月11日に発生した東日本大震災から今年で10年が経過しました。未曽有の大災害で岩手県・宮城県・福島県を中心に東日本で甚大な被害が生じましたが、被災地では地域農業の復旧・復興に向け、さまざまな取り組みが行われ、営農の再開も進んでいます。これまでの10年と今、そして未来への思いを伝えます。
若手農業者の言葉が勇気と奮起の原動力
あの日、立ち続けていることができない激震が3分以上続いた。防災無線から「至急、避難せよ!」の指示、1時間後15m強の大津波が町全域を襲った。小雪が降りしきる中、夜中までサイレンだけが鳴り響き、余震の恐怖に震えながら車座で一夜を過ごした避難所から見えた気仙沼市の夜空は、真っ赤に染まっていた。
翌朝、私はがれきをかき分け本店がある南三陸町志津川を目指した。周辺の異様な景色を目の当たりにし茫然(ぼうぜん)自失。建物は全て流失し立ちすくむことしかできなかった。まさに地獄絵図そのものであった。
当時、私はJA南三陸(現:JA新みやぎ南三陸地区本部)組合長。事務所も電気も書類もない。多くの職員が被災し連絡も取れない。不十分な体制の下でも災害対策本部の指揮を執らなければならない。連日、緊急車両への給油支援、避難所への食料提供、被災家畜への飼料配送などに追われる日々が続いた。
発災日、気仙沼市の避難所で若手イチゴ生産者に出会った。壊滅的な被害を受けたにも関わらず「もう一度、農業にリベンジしたい! イチゴ産地づくりを諦めたくない!」という言葉に驚嘆。この言葉が私に勇気と奮起させる原動力を与えてくれた。いまではこのイチゴ生産者をはじめ、水稲、菊、小松菜など若手農業者が中心となり先進的な「南三陸型農業」の復興を牽引(けんいん)している。将来を見据えた創造的復興が実現しつつあるのだ。
4年後、安倍総理が当JAを訪れた時、「このJAの若手生産者の頑張りには驚いた」と言ってくれた。あの日から10年。あらためて、この若者らに感謝したい。
10年前の「あの時」全国のJAグループが 被災地で支援活動
産地復興へあゆみ続ける被災した各地の取り組み
【岩手県田野畑村】父の思い引き継ぎ法人化
佐々木農場
県沿岸部で年間1億円目標に
津波で農地流失などの被害を受けた田野畑村。停電や断水が発生し生活が困難な中、JA新いわての職員が「農業を続けよう」と農家を励まし、農家は「食料を供給し続けることが産地の役割だ」という思いを強くしました。「佐々木農場」の佐々木剛さんの父もその1人で、今は佐々木さんが父の思いを引き継ぎ、従業員と30haの畑を耕作しています。
佐々木さんが後継者として就農した20年ほど前は家族経営で面積は5haほどでしたが徐々に面積を拡大し、2018年に法人化。ブロッコリーやキャベツ、ダイコンなど5品目を組み合わせ、1年を通じて露地野菜を生産しています。佐々木さんはJAの担当者や県内の先進農家らから情報を収集し、経営強化を図ってきました。JA新いわてや岩手県本部は栽培や機械導入、経営のアドバイス、労働力確保の面で佐々木さんをサポート。同JA宮古営農経済センター米穀園芸課の平坂博喜課長補佐は「産地として新しいことに取り組むときには、佐々木さんにまず声を掛ける」と信頼を寄せます。
佐々木さんの今後の目標は「県沿岸部で初の年間売上高1億円」。そのためには適期の農作業を着実にこなし、収穫量の高位安定化につなげたいと考えています。
全国有数の園芸経営法人
宮城県沿岸部の山元町は津波で1500haの農地が冠水しました。津波被害の農地を引き受け、2015年に被災農家、JAみやぎ亘理、全農などの出資で「やまもとファームみらい野」が設立されました。
南北8kmに広がる農地は、津波で流されたがれきや鉄くずが出てくることがあり、水はけもばらばら。土を入れ替えるなどゼロからのスタートとなりました。現在、農地は110haで、露地でネギやサツマイモ、タマネギなど、施設でトマトとイチゴを生産しています。園芸経営の法人としては全国有数の規模で、農地管理システム「Z-GIS」を活用し、効率的な営農につなげています。
社長の島田孝雄さんは「地域に育ててもらった恩返しをしていきたい」と、人と人のつながりを大切にし、地域に根差した事業を目指しています。直売所やサツマイモの海外輸出など販売チャネルを増やし経営の安定化を図りながら、新規就農者の受け入れなど地域の担い手育成にも戦略的に取り組んでいます。
【福島県楢葉町】廃業したトマトの養液栽培プラント再生
大型施設活用し雇用を創出
津波被害と東京電力福島第1原発事故で大きな被害を受けた楢葉町。震災後、廃業した企業から町がトマトの養液栽培プラントを譲り受けて修繕し、生産者を公募しました。そこで手を挙げたのが、当時いわき市で水耕トマトを生産していた青木浩一さんです。「元住民に戻ってきてほしい。農地を守り、活性化させたい」と、大型施設を活用して雇用を創出しようと考え、20年に「ナラハプラントファクトリー」を設立しました。法人設立の手続きや生産資材の供給、販路の開拓などで、JA福島さくらや福島県本部が支援しています。
現在は、町内だけでなく県内沿岸部の広い範囲から14人を雇用し、ガラスハウス1haで大玉トマトを2万3000本栽培。周年出荷の作付け体系を取り入れ、いわき地区のトマト農家でつくる地域ブランド「サンシャイントマト」として、福島県本部を通じ販売しています。
3月にJGAP認証を取得。栽培体系を見直し、10a当たりの収量30tを目指します。青木社長は「生産を安定させ、地域農業の復興・復旧に貢献していきたい」と、力強く話します。
県域越え商品開発、情報発信
東北6県本部が県域の垣根を越えて、産地間連携や地域ブランドの推進など単県ではできない取り組みを行うプロジェクトとして2015(平成27)年に設立されました。全農東北6県本部の若手職員で構成し、地元企業と連携して東北産品のプロモーションや商品開発、ブランディングなどを行っています。
設立6年目となる2020(令和2)年度はコロナ禍の影響を受けながらも、花き生産者応援に向けた「東北六花」の販売とクラウドファンディング開設、日本酒消費拡大に向けたInstagramからの情報発信、日比谷花壇と連携した「東北のお花を飾ろうプロジェクト」の展開、仙台スイーツ&カフェ専門学校とのメニュー開発、みのりみのるマルシェ(銀座三越)への出展に取り組みました。
今後も関係部署や地元企業との連携を深め、基軸となる販売・プロモーション・商品開発を継続します。
2011年入会職員 10年を振り返る
東日本大震災が起きた2011年に入会した全農職員に復興を体験した10年間を振り返り、それぞれの思いを語ってもらいました。
【岩手県本部】
復興支援、消費者の応援実感
地震のときは大学の研究室にいて、人生で初めての大きな揺れを体験しました。ライフラインがストップし食料も手に入らず、苦労したことを覚えています。
入会後、純情米販売課に配属され受け渡し業務を担当しました。地震で農業倉庫に積んであった米袋が崩れ、ラック倉庫でもフレコンが落下して大破。散乱した玄米が人の腰の位置まで積みあがりました。少しでも販売できれば…と状況を説明し、フレコンの糸くずが混入してしまった米も精米して「がんばろう岩手」のパッケージで販売することができました。
大阪駐在時は店頭販売する機会も多く、「放射能は大丈夫なのか」と聞く人もいましたが、復興支援と聞いて来店された方もいて、応援していただいていることを感じました。震災後5~6年ほどは放射能検査について聞かれましたが、今では風評被害も落ち着いたかなと思います。
岩手は米、園芸、畜産を複合的に経営する農家も多いので、もっと視野を広げて、農家の力になれるよう頑張っていきたいです。
入会して米穀課に配属され受け渡し業務を担当しました。2011年は倉庫ではい崩れが多発し、都度確認しながらの出荷となりました。またその年の秋からは放射能の問題で、検査して安全を確認できた米を販売しましたが、消費者や実需者に「安心」を感じてもらえないこともありました。生産者は安全なお米を生産するよう努めていましたが、それが伝わらないもどかしさも感じました。その後は安全性を理解してくれる卸や販売先、応援してくれる消費者が増えたように思います。
最初は「震災前に戻そう」という気持ちや言葉が多かったですが、現実には元に戻ることはありません。しかし生産者やJA担当者から「新しい形をつくって、今を最高にしよう」と未来を見るイメージを受けて、段々と戻すことが最高ではないことを感じました。今は精米販売を担当しています。安全性はもちろん、付加価値を付けることで、多くの人に「うまさにいちず」なみやぎ米を届けたいと思っています。
入会後、園芸センターに配属され、パッケージ業務や果実の出荷等を担当しました。当時は消費者から直接、「本当に食べられるのか?」との問い合わせもあり、検査をして出荷していることを伝えました。消費地販売部(東京)では市場との商談や店頭販売を担当しましたが、最初は市場から安全性についての問い合わせも多く、消費者の不安や風評などを実感しました。福島県産の青果物を預かり販売しているので、安全性を伝え理解してもらえるように努めました。徐々に販売先が増えているので、やってきた甲斐があったなと感じています。
販売単価は震災前に近づいてきていますが、生産量は戻っていません。震災を機に農業をやめた方もいます。今は園芸資材を担当しているので、販売、資材両面から提案し、福島の園芸振興につなげたいと思います。